0 歳-26 歳私は高校野球の監督だった

略歴

  • 0歳広島市安佐南区相田に生まれる
  • 6歳広島市立安西小学校入学
  • 12歳広島市立安西中学校入学
  • 15歳山陽高等学校入学
  • 18歳福山大学入学
  • 22歳山陽高等学校に社会科教師として赴任。野球部コーチ就任
  • 23歳山陽高等学校野球部監督に就任
  • 26歳山陽高等学校を退職

父も祖父も木材に関わる仕事をしていたので
子どもの頃から木材は身近なものでした

 さて、いよいよはじまりました『ひとりではじめる不動産投資術』。最初の章では、まずは自己紹介代わりに私が不動産投資に出会うまでの人生をお話したいと思います。
 不動産投資に出会うまでの話なので、この章では不動産投資にまつわるエピソードはおろか、不動産投資という言葉すら出てきません。「そんなの聞かされても困るよ!」という方はどうぞ遠慮なく先へお進みください。
 ただ個人的には、私が不動産投資で成功することになる秘訣は、案外この時期に培われていたような気もします。私の不動産投資への向き合い方、取り組み方を理解してもらうためにも、私のバックグラウンドを知ってもらうことは決して損にならないと思います。
 それでは、私が生まれたところから、まずは人生最大の挫折に至るまでの日々についてお話することにいたしましょう。

 私は昭和55年9月30日に生まれました。これを書いている現在、35歳です。
 生まれたのは広島の北部である安佐南区の相田地区。ここは山の斜面に立つ団地で、広島の方なら誰もが一度は行ったことがあるだろう安佐動物公園とは谷を挟んで反対側に位置しています。僕が生まれた頃は市の中心部に出るにはバスしかありませんでしたが、現在はアストラムラインという新交通システムが通っているので市街地までは30分程度で行くことができます。
 家族は両親に加え、母方の祖父、祖母と同居していました。私は一人っ子だったので全部で5人からなる3世代家族です。
 たまたまですが、父と祖父は木材に関わる仕事をしていました。祖父は田村木材という会社を創業した3人のメンバーのうちのひとりで、僕が物心がついた頃には会社の役員を務めていました。
 父は田村木材ではありませんが、廿日市で港湾荷役の仕事をしていました。木材港に入ってきた木材をいったん管理して、その後製材所に運んでいく仕事です。倉庫業であり木材の管理を主にやっていたみたいです。
 そんな家庭環境ということもあって、子どもの頃から木材は身近なものでした。木材港にもよく連れていってもらったし、家には木で作った棚がたくさんありました。僕が中学校で野球をやっている時期には、父は会社で余った木材を使って、グラウンドをならすトンボを作ってくれたり、ベンチの横で使うためのテーブルを作って寄贈してくれたりしました。
 当たり前のように木材がそばにある環境――それがその後、私が不動産投資の道に進むことに関係しているのかどうかはわかりません(だって現代の住宅で木造のものなんて一握りですから!)が、私はそんな家庭ですくすくと大きくなっていきます。

お金の重要性を教えてくれた祖母の存在
10歳のときには両親の給与明細を見せられた

 家に木材が当たり前にあるという環境よりも、もしかして今の自分に大きな影響を与えているのは、私が一人っ子であるということと、おじいちゃん子・おばあちゃん子として育てられたことかもしれません。私の両親は共働きだったので、一度熱を出したタイミングから祖父や祖母と一緒に寝るようになり、そこからは両親よりも2人と過ごす時間が長くなりました。
 中でも、とりわけ影響が大きかったのは祖母の存在です。うちは両親も祖父もそれほど厳しくなかったのですが、祖母だけは別でした。祖母はしつけの部分で、とにかく厳しかったのです。
 例えば、私が友達に対して失礼な態度をとったりすると、手足を縛られて物置に放り込まれました。そのときに言われたのが「人を大事にしなさい。友達を大事にしなさい」ということ。今思えば、私が一人っ子ということを踏まえて、あえて周囲の人たちとの接し方には口うるさく言っていたのでしょう。
 他にも「家ではなんぼわがまま言っていいけど、外では絶対にわがまま言うな」とか。とにかく世間に対して甘えた態度を見せないよう強く言われて育ちました。
 そんな祖母が私にもっとも強く教えてくれたのは、お金に関することでした。その教育方針はとにかくリアルで、スパルタでした。
 具体的には、10歳のとき、祖母は私に両親の給与明細を見せてきました。それに加えて自分たちがもらっている年金や被爆者年金の明細書も見せながら、こう言うのです。
 「これが現実だよ。私たちはこのお金で生活しているんだよ」と。
 また、中学校入学や高校入学など折々の節目には、祖母は必ず現金を私に手渡しました。「あなたの入学金は私が出してあげる」と言いながら、入学金として必要な、例えば100万円をまずは現金で私の手に握らせるのです。1万円札がまとまったズシリと重い札束は、子ども心にも“とてつもなく大事なもの”ということが伝わってきて、ドキドキする緊張感を私に強いてきます。
 もちろん受け取った100万円はすぐに祖母に返します。しかし、そこで「進学はタダでできるわけじゃない。100万円という費用がかかるんだ……」ということを生身の実感として理解するわけです。
 祖父は定年まで田村木材で働いていたので、祖母がお金に困ることはなかったはずですが、祖母のお金に対する厳密さ、リアリズムは徹底していました。
 祖母は私が大学2年のときに他界してしまいますが、それでも彼女の教えは絶対的な規範として私の中に残っています。
 いわく「お金は湯水のように出てくるものじゃないから大事にしなさいよ」。いわく「お金がないということが一番情けないことじゃけえね」。
 そんな祖母の教えのせいでしょうか。私は幼い頃からなるべくお金を使わないで過ごし、もらったお年玉はすべて貯金する生活を送ってきました。まあ、一人っ子ということもあって、わざわざ自分のお小遣いを使わなくてもほしいものは大概買ってもらえたのですが、それでも小学校卒業時には、貯金が50~60万円になっていたのだから、祖母の教え恐るべしです。確かに子どもながらに「お金は貯めるもの」という感覚は私の中にずっと根付いていました。

徹底的に鍛えられた中学校の野球部時代
有力校から声がかかるまでに成長した

 そんな私が子ども時代に熱中したのは野球でした。8歳のときにはじめた野球はすぐに趣味の領域を超えて、私の10代~20代前半のすべてを塗りつぶす別格の存在に育っていきました。
 もともと、私の父が野球をやっていたのです。父は、私も通うことになる山陽高校の野球部を出て、その後、専修大学、社会人野球のワイテック硬式野球部(広島県安芸郡海田町にある金属製造業の会社・山本鋼材の野球部。2001年にワイテックに改名し、2013年廃部)へと進みました。2年間で身体を壊して退社しましたが、選手としての実績は私よりも上です。
 父が野球をやっていた影響で、私も子どもの頃から野球をやるようになりました。別に強制されたわけでもなく、自然とやるようになった感じです。
 小学校の頃は地域にリトルリーグのチームがなかったので、ソフトボールのチームに入れてもらいました。本来は3年生からしか入れないのに、身体が大きかったので2年生で入部できました。ポジションはいろいろやらされましたが、最終的にはキャッチャー。それも身体が大きいということで、イヤイヤながらやらされることになったのです。
 野球への情熱が花開いたのは中学校に入ってからでした。私は安西小学校から安西中学校に進学しましたが、その中学校の野球部の監督がとにかく厳しい人だったのです。
 私はそれまでソフトボールのチームでプレーしていたので技術的には部員の中で一番下手で、入部してすぐに「こんなんじゃ無理だ。やっていけない……」と絶望的な気分になっていました。ところが、その監督はなぜか私に目を掛けて、徹底的に鍛えてくれたのです。その鍛え方は容赦なく、手が出ることもしょっちゅうでしたが、それでも私はそれがイヤではありませんでした。
 というのも、監督に言われたように練習していれば、面白いくらいに野球がうまくなっていくのです。元から体格がよかったこともあって、すぐに飛ばす打球の飛距離も上がり、レギュラーとして試合に出るようになりました。途中からは四番を任され、3年生の頃には“大型捕手”として有力校4~5校から声がかかるまでの選手に成長していました。
 今、思い出しても中学校の練習は厳しかったです。その後、私は高校、大学と野球を続けますが、野球人生の中であれほど厳しい練習をさせられたことはありません。
 だから中学時代はすべてが野球一色。とにかく徹底的に鍛えられ、すごいスピードで野球を学び、上達していった時期でした。
 ただ、だからといって自分が強い向上心を持って野球に取り組んでいたのかと問われると、あまり自信がないのが正直なところです。当時から私は監督に「おまえは欲がない。欲がなさすぎる」と叱られていました。事あるごとに「もっと自分の気持ちを前に出してプレーしろ」と言われてきました。
 つまり、当時の私は自分の意志で野球をしていたというより、父や監督の言うことを素直に聞いていただけのような気もするのです。たまたまそれで結果が出たので、楽しくなって、もっともっととがんばっていただけ――そういう状態だったのではないでしょうか。
 その中学校時代の恩師とはいまだに交流があります。私が大学を卒業して「母校の教員になって野球部の監督をやる」と伝えたときは本当に喜んでくれました。
 そして、私は何も考えずにエスカレーターを乗り継ぐように、声をかけてくださった高校の中から山陽高校を選んで進学することにします。

「教員免許をとって片腕になってくれんか?」
高校の恩師の一言で自分が進む道が決まる

 先程も書きましたが、山陽高校は父の母校でもありました。
 父と同じ学校に進もうと思っていたわけではないのですが、気が付けば選んでいたという感じでした。中学時代は坊主頭だったので「山陽高校は髪が伸ばせる。そして特待生として採用してくれる」、その2つがポイントとなりました。
 でも今から考えると、野球を続けていた26歳までの人生は、結果的には父が歩んだ道をそのままなぞっていただけのような気がします。自分で何かを切り開いていった手応えもないですし、ぼんやりとレールに乗っていただけ。中学卒業時に「将来の夢は野球選手」と文集には書きましたが、それも現実的に考えていたわけではありません。将来自分がどんな職業に就きたいのかなんて、具体的に考えたことは一度もありませんでした。
 山陽高校では再び挫折が待っていました。
 特待生として入学した私ですが、周りは体格のいい選手ばかりでした。当時山陽のレギュラー選手の平均身長が178cm。私は体格とパワーが唯一の自慢だったので、すぐに「これはマズイ……」と焦る気持ちになりました。
 より高いレベルの学校に放り込まれ、実力的にはカツカツでしたが、そこで諦めて野球を辞めるという選択は、私にはありませんでした。なんといっても自分は特待生という立場で入学した身。「野球を辞める=学校を辞める」ことだと思っていたし、さらには野球部の練習も中学時代に比べて格段にラクだったので、あえて辞める必要も感じなかったのです。
 最終的に私は高校時代、ずっと補欠で過ごしました。キャッチャーをやっていたので3年生のときに背番号「2」はもらいましたが、居場所はいつもベンチ。私よりずっと大きな背番号の選手が、実際はレギュラーとして試合に出ていました。
 高校時代は中学のときほど練習が厳しくなかったので、部活以外の思い出もあります。雨の日は練習が早く終わるので、部の仲間たちと流川の「ビリー・ザ・キッド」というカラオケボックスに行って、一緒に遊んだりしました。彼女はいなかったけど、ある程度野球に打ち込み、ある程度の遊びも経験して、それなりに満足のいく高校時代だったと思います。
 ただ、この頃から選手としての自分にはさすがに限界を感じるようになっていました。甲子園にも出られない高校の野球部でレギュラーを獲ることもできないのです。もう中学時代のように無邪気に「将来はプロ野球選手!」とは言えません。じゃあ、どうすればいいのか。自分には野球以外で何ができるのか……?
 そんなことを考えはじめた3年生のとき、今度はタイミングよく高校の恩師が私に声をかけてきたのです。彼は3年間野球部のコーチをやっていた先生で、私が卒業する年から監督に昇格することが決まっていました。
「なあ中道、おまえ大学で教員免許とって、おれの片腕になってくれんか? おれは来年から野球部の監督になるけえ、おまえにコーチとして戻ってきてほしいんよ」
 一体どうして恩師がそんなことを言ってきたのか、そのときはわかりませんでした。当時、私はレギュラーでもなんでもない存在です。ただ、先生とはとてもウマが合っていました。先生は3年間ずっと私のクラス担任でもあり、当時は30代前半。クラスの中でも担任と学級委員という形でコンビを組んでいて、どこか頼れるお兄さんのように感じていたのです。
 その恩師の提案は、やっと将来のことを考えはじめた私の心にスッと入っていきました。
 そうだ、大学に進んで教員免許を取ろう。そして母校に戻って、この先生の下で野球部のコーチになって、一緒に甲子園を目指そう――。
 ちなみに4年後、私が教師となって母校に帰ってきたとき、他の先生方は「やっぱりおまえが帰ってきたか」と口々に言われました。私と恩師の仲のよさ、そして相性のよさは、それくらい衆目の一致するところだったのです。
 恩師の一言で自分の新たな方向性を見つけた私は、再び迷うことなく一直線に進んでいきます。

中学、高校、大学……常に恩師に恵まれた人生
ずっと恩師に導かれて将来を決定してきた

 大学は福山大学に入りました。
 父の知人が福山大学の部長と仲がいいという縁もあって、スポーツ推薦の人と同じ待遇で、卒業前の2月から野球部に顔を出すことになったのです。
 しかし、福山大学の野球部は大変なところでした。そもそも今お話したように、私は高校を卒業する頃にはプレーヤーとしての自分に見切りをつけ、指導者の道に進むことを決意していました。だから大学では「野球は趣味の延長くらいでやれればいいや」と軽い気持ちで考えていました。
 ところが、私の入った野球部はとんでもなく厳しいところだったのです。キャンプで徹底的にシゴかれた私は簡単に音を上げてしまいました。そして監督に「こんなんじゃ無理です。辞めさせてください」と伝えました。
 野球部を辞めるということはスポーツ推薦も取り消されるということだから、寮も出なきゃいけない――そんなふうに思った私は一人暮らしの部屋を探しはじめようとしていました。
 すると今度は大学の恩師が、私を引き留めに来たんです。ホテルの喫茶店に呼び出され、私の話を聞いてくれ、そして「教員免許を取るつもりなら、部を辞めずに学生コーチという形で残らないか」と言ってくれたのです。
 これはとても異例のことです。普通、学生コーチというのは4年生になっても芽の出ない選手がやるものなのに、私は1年生から専任コーチとして活動することになったのですから。
 面白いことに、その後、恩師を見ていても、辞めるという生徒を引き留めることはほとんどありませんでした。それなのに私のことは引き留めて、コーチとして育ててくださったのです。
 そう思うと、選手として徹底的に鍛えてくれた中学時代の恩師、指導者への道を勧めてくれた高校時代の恩師、学生コーチになることを認めてくれた大学時代の恩師……私は常に恩師に恵まれてきたことに気付きます。10代から20代にかけては、恩師に導かれるがまま大人になったと言っても過言ではありません。良くも悪くも、私は人生の先輩たちから目を掛けられやすいところがあるのでしょう。
 大学時代、私が心に誓った将来の夢は一度も揺らぐことはありませんでした。私は予定通り母校の山陽高校で教育実習をして、教員免許を取得しました。山陽高校の教職に空きが出るかどうかもわからないのに、そのうち入れるだろうと思って就職活動も一切しませんでした。
 今思えば完全に若気の至りだし、無謀極まりない行為です。ただ、当時アルバイトや非常勤講師をしながら自分の行きたい学校の教職の採用枠が空くのを待つことは普通でした。なので私も何の疑問もなく、父の働く木材港でアルバイトをしながら山陽高校の空きが出るのを待とうと思っていました。私には「山陽高校に戻って野球部のコーチをやる」という夢しか目に入っていなかったのです。
 そして大学の卒業式が終わった3月20日、奇跡的に山陽高校の社会科教師の枠がひとつ空くことがわかりました。
 私の夢は、いよいよ現実に向かうこととなったのです。

23歳にして監督就任、そこから学校内の権力闘争や
利権の奪い合いに巻き込まれることに……

 結論から先に話してしまえば、母校の野球部に戻ってきた私のキャリアは、わずか3年半で終わることになってしまいました。
 最初は順調な滑り出しだったのです。私は夢と希望に燃えていました。4年の時を経て、やっと恩師と一緒に仕事ができる環境にたどり着いたのです。自分がいるべき場所に立っているという喜び。低迷していた母校野球部をかつての強豪の位置に戻すという使命。私のコーチ就任を期に、なんと父も山陽高校のスカウトとなって、各中学校の有力選手の視察に回ってくれることになりました。
 みんなの力が集結し、盛り上がっていく気配がありました。今は選手たちの力は落ちているし、ここから時間はかかるかもしれないけど、それを立て直して甲子園に行くんだ。ここからみんなで伸びていくんだ――私はそんな気持ちで母校の仕事に邁進していました。
 ただ初年度、いきなり予想もしていなかったアクシデントがチームを襲います。私を誘ってくれた恩師の体調が突然悪くなったのです。彼は私より15歳上で当時まだ40手前でしたが、心臓の血管がつまる病気を抱えていました。胸にカテーテルを入れていて、その調子がよくないというのです。
 恩師は秋から体調を崩し、その間は私が練習メニューを決めたりしていたのですが、何度か復帰と休養を繰り返した末、春の大会からは私に監督を頼みたいと言ってきました。
 そして、私は社会人2年目の23歳で、母校の監督に就任します。
 このことは当時、県内最年少の高校野球監督誕生ということで新聞にも紹介されました。最年長が如水館高校の迫田穆成監督(昭和14年生まれ。私と41歳違い)だったのですが、監督と並んで写真に写ったこともあります。
 監督をやること自体が問題だったのではありません。大学時代からコーチの勉強をやっていたこともあり、突然の監督就任にも私は動揺せず、引き続き野球に没頭していました。普通に練習メニューを組み、試合ではサインを出して、采配を振るっていました。
 問題はグラウンドの外にありました。
 私が監督になった時点で、次第にえたいの知れない人たちが周りに寄ってくるようになったのです。実は高校野球の世界というのは利権の温床で、遠征費用のピンハネだったり、レギュラーにしてやるという名目でお金を受け取ったりと、そういう行為が裏で横行していたのです。
 彼らは私がまだ大学出たての若造ということで「くみしやすし」と近づいてきたのでしょう。しかし、私は若かったせいもあり、そんなふうに近づいてくる彼らを思い切り突っぱねてしまいました。そこから私への風当たりは一気に強くなりました。
 私のことを面白く思わない人たちは、私を辞めさせようと策を仕掛けてくるようになりました。自分も何かの利権にありつこうと、“元コーチ”という肩書の人たちが大勢群がってきます。それは学校内部の権力闘争と結びつき、ついに学校は創立100周年を迎えることを理由に、かつて甲子園に出たことのある有名な職業監督をすることを勝手に決めてしまいました。
 もちろん、その決定に私は怒りました。そもそも私は「高校野球の指導者は、まず教育者であるべき」と思っていたので、その時点で納得できません。
 学校側は「とりあえず学校に残って部を手伝ってくれ。彼の下で技能を磨いて、また監督をすればいいじゃないか」と言ってきましたが、私にはそれも許せませんでした。だって昨日まで監督だった人が、新しい監督の下でこれまでと違うことを言わなければならない姿を、生徒たちはどんな目で見るでしょう?

学校を辞めた瞬間、敷かれたレールを降りて、
初めて自分の足で歩きはじめたのです

 野球部に残ることを断った時点で、私の教員としての未来も閉ざされたも同然でした。新監督就任に積極的に動いたのは教頭でしたが、このまま学校に残っても私の授業日数は減らされていく一方でしょうし、私は非常勤講師だったのでこの先の契約も結ばれることはないでしょう。
 だったら先に辞めてやる……!
 私を誘ってくれた恩師は、もちろん引き留めようとしました。「辞めちゃいかん」と何度も説得されました。
 しかし、私は「先生、もう決めましたから。今回だけは反発させてください」と伝えました。
 それは26年間、ずっと父や恩師の言うことに従ってきた私の初めての反抗でした。私はここで初めて敷かれたレールを降りて、自分の足で歩きはじめたのです。
 辞表を提出した後、「他の学校の野球部、紹介しようか」と言ってくれる人もいましたが、私は丁寧に断りました。「もう野球なんて見たくない」という気持ちでした。
 自分がそのとき何を思っていたのか、感情は真っ白であまりはっきり憶えていません。ただ「これで野球を終わりにする」という気持ちだけはありました。父と一緒にボールを投げて、多くの恩師にかわいがってもらった野球の世界から、自分はとうとう離れてしまう。授業が終わったら当たり前のようにユニフォームに着替える生活がこれで終わる……ある種、野球選手が引退するときの気持ちに近かったような気もします。
 母校に赴任して3年半、監督生活2年半――7月末の夏の大会で敗退した瞬間、私の山陽高校での日々は終わりました。
 2学期から野球部の監督も社会の先生も変わるという、バタバタの退任でした。ひとつだけ心残りは、残された生徒たちに対する想いです。せっかく山陽に来てくれて、やりたい野球がやっと形になってきた矢先に自分がいなくなってしまうという申し訳なさ……。
 辞めた後のことは何も考えていませんでした。ただ、これまでとまったく別の何かをやりたかった。父の関係する会社に紹介しようかとも言われましたが、それも断りました。
 とりあえず自分で探したい。ゼロから自分ではじめたい。
 26歳にして初めての自立――私の自分探しがはじまったのです。

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